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 3才頃 


1959年(昭和34年)5月19日おうし座 O型、正一(現会長)の鮮魚店の長男として生まれる。
小学校の頃から勉強はあまりしないが、スポーツ好き少年であった。

通った大野小学校 大野中学校が目の前にあったため、始業時間ぎりぎりで毎朝駆け足で通っていた。
運動会では、クラス代表でリレーの選手に選ばれていた。毎朝 ダッシュで学校に通っていたため 足が速くなったと思われる。
小学校ではソフトボールが盛んで 大会では4番ピッチャーをしていた。6年の時は準優勝した。
中学2年の時からさだまさし(当時グレープ)に憧れフォークギターを始め、中3年のときは、友人と組んで佐世保医師会館や県北会館でコンサートをした。
松任谷由美(当時荒井由美)かぐや姫、チューリップ、吉田拓郎、などの曲をコピーした。その時のギターがまだ押入れにある。
中3の時は通信教育で勉強しアマチュア無線級(ハム)の国家試験をとりに熊本で受験し合格した。

中学校から大学まで、ハンドボール部に所属し、各学校で主将をつとめた。
大野中学校3年時は県内の大会はすべて優勝し九州大会に参加、初めての県外遠征で試合前日遅くまではしゃいだため2回戦で破れ、
県内2位のチームが九州大会優勝、全国大会2位となる。
その時のほとんどのメンバーが高校に入学、翌年ハンドボール長崎国体メンバーの鎌田先生が佐世保西高校へ赴任し、
練習に明け暮れた。それまではクラブではなく同好会であった。
高校2年の県総体 準決勝は、全国トップレベルの佐世保北高校と僅差で破るが、決勝で口加高校で破れ、インターハイに出場できなかった。
その時の北高のエース荒木さんは、早稲田大学へ進学、関東学生リーグで活躍し、早稲田大学ハンドボールのコーチを務める。
高校3年時には、インターハイに初出場し全国3位の成績をあげた。
その年、全日本学生代表も選ばれ韓国遠征する。長崎スポーツ賞を個人、団体で受賞した
                          当時の写真
高校時代のハンドボールの成績のおかげで、日本大学商学部商業学科へ進み、東京都世田谷区桜上水で4年間日本大学ハンドボール部合宿所生活を送る。
1年の夏休みにはスポーツ少年団代表で西ドイツ ノルウェーに約1ヶ月ほどホームステイし、スポーツ交流をする。
当時の合宿所は、2階建ての普通の家を借りており、部員全員の掃除、洗濯、食事等を一年生が行っていた。食事当番の一年生は、夕方の練習を早めに抜けて買出しをし、全員の夕食、風呂の用意をしていた。このときの体験が料理の道に進むきっかけになっている。

日大ハンドボール部では、1年から3年の夏までは、努力はしていたが、けが等もあって、まったく認められず、試合はおろか、ベンチにも入れなかった。中学から常にエースでありチームの中心であった私には、控えの立場を理解するとても大事に時間でもあった。いつも試合の時には観客席や選手の手助けばかりで、華やかなコートとは縁が無かった。とくに、高い位置からのロングシュートが通用せず、ポストのポジションへ移行しマスターするまで時間がかかったことと、一年の時に、キャクプテンの付き人となり、日大コーチの新井田さんとキャプテンのミーティング(飲み会)にいつも同席し、最新のハンドボール理論を学び実践できるまでは相当の時間が必要であった。強い相手に試合で勝つには地味なディフェンスの強化するしかないという理論は、今でも経営の基本理論になっている。
二年の冬、映画「ロッキー」を見て、発奮し、最後の特訓を行う。西蓮寺の階段を往復、縄跳びと腹筋、腕立て伏せんど、筋力トレーニングや走り込みをおこなった。ついに3年の夏にいきなりレギュラー入り、その秋、なんとキャプテンになる。4年の夏には、日大は東日本大学選手権で3位 私は全日本学生代表選ばれてニューカレドニア海外遠征をする。
秋には、関東学生一部リーグのベスト7賞を受賞。

この賞はハンドボール全日本のエース宮崎大輔選手(当時 日体大)も受賞している。



大学卒業後、ハンドボールの実業団からのお誘いを断り、テレビの料理番組で有名な
大阪阿倍野辻調理師学校へ行き、夜は京橋の平八亭(居酒屋)でアルバイトをする。その後、すし・割烹福井(奈良 生駒)に入り日本料理の本格的な修行に入った。当時 バイクブームで 鈴鹿8時間耐久レースを観戦したり、千葉県で先生をしているの日大ハンドの同期(高校の体育教師 大鐘君)にバイク(ヤマハRZ250R)で高速を往復したりして楽しんだ。

卒業後最初に入った割烹福井の福井幸男氏の紹介で千早(大阪 喜連瓜破) 、大和屋三玄(ホテルの日本料理店 東洋ホテル内 大阪中津)、魚慶(仕出し店 枚方藤阪 京阪線沿線)等で8年ほど修行した。大学時代に習った封建的な上下関係は料理界でも充分通用し、同期に比べ先輩や親方からずいぶんかわいがられた。ここでも最初は、慣れるまでは時間がかかったが、最後は出世頭となり、ホテル日本料理店での脇鍋となり、料理長、副料理長に次ぐ地位を確保し、大変貴重な体験をすることができた。
この業績が認められ 自民党総裁賞を 受賞する、88年29歳で佐世保に帰り、有限会社ふじ・ながの社長となる。
名前は社長であるが会長(父)から経営者の基本を教えられ、職人気質になれていた私は毎日怒られてばかりいた。とくに魚市の仕入れ、魚の目利き、さばき方など ほとんができない仕事ばかりであった。 

88年本店をすし、仕出し店へ改装して売上を伸ばす。2年後、商業界箱根本ゼミに参加し、自己の経営能力不足を痛感し、その後 勉強会(商業界、ペガサスクラブ)に積極的に参加する。

90年ペガサスクラブの米国視察セミナーに参加し、当社の現状への危機感を強め帰国する

92年春 西田鮮魚店社長とペガサスクラブの勉強会で知り合い、すし家族三次店(すし若丸のモデル)を見学する。秋に本店近くにあった郵便局跡地200坪(現在のすし若丸大野店の土地)を落札する

94年、回転すし すし若丸大野店 を開業する。開店の年、20年ぶりの猛暑と、給水制限、タイ米の使用等を余儀なくされ、厳しい船出となる。翌年、起死回生の半額セールを行い、以来4年間2桁の売上の伸びを継続した。

96年、長崎 江山楼社長 王国雄氏より
ペリカンクラブにお誘いを受け、入会を許可される。この会には、全国でも著名な飲食店が参加され毎年、各地で勉強会が開催され、著名な多くの社長さんから、指導を受ける                            

97年、当時九州一の売場規模(駐車場1700台)をほこるジャスコシティ大塔へ鮮魚店で出店要請があり、勇んで出店する。が、駐車場の不備や、競合店との値引き合戦等があり、平日の客数の落ち込みが激しく、予想を大幅に下回る売上が続いた。いろいろな方策を試みたが、回復の見込みが立たず、多くの赤字と借金を抱ながらも、翌年6月ジャスコ店を撤退する。

新店舗の出店と鮮魚店の撤退等が重なり朝の4時から夜は9時過ぎまで仕事をしていた。家庭は破綻し離婚。二人の息子は自分が引き取り、両親(会長・副会長)の世話になりながら育てた。
子供には 大変つらい思いをさえてしまった。このとき長男小学校2年生、次男 幼稚園の年長であった。

3年後 晴美と 再婚し、3番目の男の子を授かる 彼女は長男次男と三男とを分け隔てなく 育ててくれ やっと 家族に 明るさが戻ってきた。長男と次男は中学からハンドボールをはじめた
現在ハンドボール選手となり活躍している。長男は高校3年で(08年3月)全国選抜で3位となる。次男は中学3年のとき(07年12月)九州大会優勝、全国ベスト8となった。

98年、ジャスコ店撤退の翌月、7月にすし若丸早岐店をロックショッピングタウン早岐(ウェルマート<SSM>、ホームワイド<HC>めがねの三城<SS>、ダイソー100円ショップ<VS>等7店、駐車場500台、敷地9800坪)に出店する。ショッピングセンター隣接の立地のため、いきなり大野店の開店当時の約3倍以上を売りあげた。

2000年 6月  晴美と再婚 7月にヨーロッパへ新婚旅行 ペリカンクラブの佐世保長崎大会が行われ、実行委員長となる。晴美と二人三脚でペリカンクラブの歴史や思い出の本を編集。

2002年 10月 国道202号線沿いに 3号店 ふじ若丸中里店を出店 6月 3男(優貴)が生まれる

2002年 12月 早岐店改装 レーンの中に入って人が握れるようになる 同時に店名をふじ若丸早岐店と改名

2003年 4月  大野店改装 同時に店名をふじ若丸大野店に改名


2003年 8月  オズ支店 閉鎖

2005年 7月  佐世保ハンドボール協会 副会長に就任

2005年 10月  ペリカンクラブの幹部が集まり、経営会議を行う。2店舗の閉鎖と大野店の土地売却を決定した。 当月ふじ若丸大野店閉鎖 翌11月 ふじ若丸早岐店閉鎖

2006年12月 テレビ朝日系全国ネット 月曜午後7時〜8時 各週 いろいろな企画で高視聴率をだしている「月バラ」 月曜のバラエティ という特別番組に登場しました

「久本雅美の日本全国おいしい回転すし店 No.1決定戦」今回 久本雅美さんが司会進行をされ審査員として 中村玉緒さん 大相撲のバルト関 久本さんの3人が全国の回転すしを審査し、日本一を決定していく番組でした


2007年11月 じゃらん12月号に掲載 佐世保すしバーガー


2007年12月 長崎プレスに掲載 九十九島カキの酒蒸(ふじ若丸)や九十九島カキの特選ちらし (ふじ・なが本店)